母は何も解っていない

昨年末の帰省は、最悪だった。
二週間の予定を一週間で終えた。
通院日を一週間早くしてもらって、友達の家に泊まらせてもらって、娘とチビちゃんには一日しか会わずに。
一日も早く、実家から東京へ帰りたかったのだ。




出迎えてくれた母の顔を見た時から、イヤな予感はしていた。
「ずいぶん元気になったようだから、ここに帰って一緒に暮らしましょう。老後の世話をしてちょうだい。
そうしたら、家と土地と財産を全部、みほにあげるから」
・・・何を言い出すかと思ったら!!
病気の症状が軽くなってきたのは、どうしてだか、解らないのだろうか?
実家に帰っても、三日で追い返されるのは、なぜだか、解らないのだろうか?
拒否したら、あっさり言われた。
「じゃあ、みほには一銭もあげない」




相変わらず、実家にいると、緊張しっぱなしだ。くつろげない。ビクビクしている。
細かいことまで指示をされ、トイレに行くのも断らなければならない。
自分の部屋に逃げ込んでも、ノックもせずに入ってくる。




鬱が悪化した。
急に涙が止まらなくなる。
イライラそわそわして、じっとしていられない。でも、無気力で何も手につかない。
この症状は、まだ続いている。

今日は落ちてる・・・

数日前から、落ちて(落ち込んで)いる。
理由は無い。鬱の波に飲み込まれているだけ。
あと2〜3日もすれば、這い上がれるだろう。
それまでは、できるだけ何も考えないことだ。
薬をのんで、寝逃げをするのもいい。




神戸にいる頃は、落ちている期間が長かった。
シャッターもカーテンも閉めて真っ暗な寝室のベッドに、1ヶ月も潜り込んだりしていた。
ここに来てからは、寝込んでも4〜5日で立ち直る。
来たばかりの頃は、酷かったが・・・。
残してきた娘たちのことを考えると、自分が悪いんだと責めて、新しい包丁で腕に何本も切り傷を付けた。
流れる血を見て泣きながら
『あの子たちは、もっと辛い思いをしている』と考えた。
「親が離婚するのだけは、絶対にイヤだ!!」と言ってた娘が、
「ママが生きてるなら、どこに行ってもいいよ」と泣いたことを思い出した。
どんな思いで、それを口にしたのだろう。
それなのに、私は、また首を吊ろうとした。




今は「死のう」とは思わない。
残念ながら、寝る前に「明日の朝、目覚めなければいいな」とか、散歩中に「心臓止まらないかな」とか考えてしまうけど。
でも、自ら命を絶とうとは思わない。
病気が良くなってきてるってことだろう。




ようやく、ここの生活にも慣れ始めて、精神的にも落ち着いているのに・・・
実家に帰らなくてはならない。17日〜30日。
娘の学校行事を、一度も見てやっていないので、最後の行事に行く約束をした。
それから、神戸での主治医が定期的に診察したいからと、診察日を決められた。
病気になってから、実家には3日間滞在が限度だ。
几帳面で潔癖症で完璧主義の母が、ヒステリーを起こす。
怒鳴り散らしたり、夜中に奇声を上げたり・・・。
もう、いい加減、私は元気な頃の私ではないのだと、解ってほしいが、無理みたいだ。
友達が「泊まっていきなよ」と言ってくれたが、こんな長期だと、お互い気を遣うだろう。




ああ、気が重い。
今回落ちてるのは、帰省が原因だろうか。

新しい生活、はじめました。

8月の終りに離婚した。
9月の初めから一人暮らししている。
生まれ育った神戸を離れて東京で。




予定では、離婚後は実家に戻るはずだった。
そのつもりで、荷造りしてた。
荷物を運ぶ日に、両親と口論になった。
父は言ってはいけない言葉を口にした。
私は、泣き叫んだ。
病気に無理解な両親と暮らすなんて、無理なんだ。
体調が悪くて里帰りさせてもらっても、3日で追い返される実家になんて、帰れないんだ。




東京の友達の実家の近所に家を借りた。
両親は、東京の大学に進学することも、東京で就職することにも大反対だったのに、
病気で何もできない今の私が、東京に出ることには、何も言わなかった。
むしろ、喜んでいるようだった。厄介払いができて、ホッとしたのだろう。
今の私は、両親にとって『自慢の娘』ではない。だから、もう必要ないのだ。
この3ヶ月間で、両親からの電話は、1度もない。



友達は、鬱病の経験がある。
本人もご両親も、私を理解して下さっている。
家事は、すべて、友達が通ってきて、してくれる。
夕食は、ご実家の方で、お母様の手料理をご馳走になる。
体調が良い時には、友達が散歩に誘ってくれる。
病院にも付き添ってくれる。
弟が
「赤の他人のお姉ちゃんに、そこまで親切にしてくれる人って、いるん?信用できるん?」
と言った。
でも、そういう人たちが存在するのだ。
友達のお母様が、
「みほちゃんみたいな、いい子が、どうして病気でこんなに苦しまなきゃいけないの?と思うと
絶対治してあげなきゃと・・・」
と、おっしゃって泣いて下さった。私も、その優しさに泣いた。
一緒に笑ったり泣いたりしている。




理由もなく落ち込む時もある。
4〜5日寝たきりだったりもする。
でも、必ずそれには終りがある。




花がきれいだと思えるようになった。
木々の緑が気持ちいいと思えるようになった。
映画が観られるようになった。
時々、音楽も聴ける。
絵が描けるようになった。




娘とチビちゃんとは、メールや電話で話している。
2人とも、話したいことがいっぱいみたいで、いつも長電話。
私は、ずっと笑っている。




友達のTちゃん一家に支えられて、生きている。

娘の涙と、離婚会議

夜中に二人っきりになった時、突然、娘が言った。
「ママは、今でも死にたいと思ってる?自殺する?」
『武士になりたい!!』なんて言う気丈な娘の、大きな目から涙がポロポロこぼれ落ちる。
「死なないで・・・。ママが死んだら、私、生きていけない」
ギュッと娘を抱き寄せる。
「死なないよ。ママは絶対に自殺しない。約束する」
娘が落ち着くまで、抱きしめて、震える背中をなでる。
そして、同じベッドで抱き合って眠る。しがみつくように。




そんなことが毎日続いた。




幼稚園には、今年に入ってから一日も行けなかった。
小さな一歩でも前に進めれば希望もあるが、ずっと同じ場所で足踏みをしてるみたいだ。気が滅入る。
2ヶ月ほど考え続けていたこと・・・これが正しいのかどうかは、わからない。
ただ、今の状態をいくら続けていても、何も変わらないような気がした。
「ママは生き続けるよ。でも、ちょっと離れた場所でだけど。いいかな?」
「離婚するってこと?・・・ママは、ここだと苦しいんだもんね。ママが元気になれるんだったら、いいよ」
娘は、私によく似ている。
甘えるのが下手。
ワガママを言わない。
人に、弱い自分を見せない。
愛する人が幸せならいいと我慢する。
私は、親として最低だ。
守るべき大切な娘を、苦しめている。




夫に離婚を切り出した翌日、夫の両親と私の両親が集まった。
罵り合いが続いた。
今まで、
「みほを人質に取られているから、あちらのご両親には何も言えないわ」
と言っていた母が、泣き叫んで責めている。
夫に向かって、
「おまえは、黙っていろ!みほを守れなかったくせに!」
と、寡黙な父が怒鳴り声を上げている。
私も、結婚して15年間、一度も反抗したり口答えできなかった舅・姑に反論した。
全身の震えが止まらなかった。
最後には泣きながら倒れてしまった私の背中を、夫がなでていて、
「結論は二人で話し合って出しなさい」と、親たちに言われた。
夫には、
「今すぐ、離婚届にサインして下さい。明日にでも家を出ます」と言ったが、
夏休みは、娘とチビちゃんと一緒に過ごして、籍を抜く時期は考えようということになった。




9月になったら、実家に帰る。
「あなたは、もう、うちの娘ではないのだから、ここには帰れません」
過去に何度か叱られた。
だから、今回もダメだろうと思っていたのだが、両親は私を受け入れてくれた。
「家に帰ると病気も治るかもね。ここでは我慢ばっかりだもの・・・この環境が原因なのかな」
「子ども達も引き取ってやりたいけど、できないのを許してくれよ」
私は、生まれて初めて、父の胸で泣いた。泣きながら礼を言う私に、父は、
「当たり前じゃないか。可愛い娘が辛い思いをしてるのに、助けない親なんていないだろう」
と言った。
それでも、今年の初めに、体調悪化で里帰りした3日目に、母がヒステリーを起こして追い返された時の不安が頭を過ぎり、
「家に帰れば、ちゃんと起床時間に起きて、着替えて、ママのお手伝いするからね」と言ったら、
「ママは、考えを改めたの。だから、無理しなくていいのよ。できることをすればいいから。お互いに焦らずにね」




父の言葉を聞いて、自分は親としてどうなのかと考えた。
可愛い娘達に辛い寂しい思いをさせて、自分だけ逃げているんじゃないか。
自分が苦しみから逃げるために、娘達を犠牲にしてるんじゃないか。




ほんとうに、この選択は正しいのだろうか・・・。
後悔しないように、精一杯頑張ろうと思ってはいるけれど。

服毒自殺と磁気刺激療法

カウンセラーの先生は、突然うつむいて黙ってしまった。
時おり、嗚咽が聞こえる。
先生が泣いてらっしゃる。
カウンセリングに通い始めて4年、初めてのことだった。
「その時、みほさんはどんな気持ちだったんだろうと思うと・・・。ごめんなさいね、私が泣いてはいけませんね」
子どもの頃に、母から言われた言葉を話した後だった。
「その時の子どものみほさんに、今のみほさんは、何て言葉をかけてあげますか?」
と聞かれ、
「あなたは、すごく頑張ってるよ。辛かったね。あなたは価値のある人間だよ・・・と言って抱きしめてあげたいです」
と答えたら、急に胸が痛くなって、私は大声で泣き出した。子どものように。子どもの頃の私に戻って。・・・あの頃は泣けなかったから。




相変わらず、体調が悪い。
幼稚園の送り迎えもできず、家に引きこもって、ほとんど寝たきりだ。
お薬を変えても増やしても、変化はない。
うつ病になって5年、また最悪の頃に戻ってしまった気がする。
私は、一生治らないんじゃないかという考えで、頭が一杯になる。
先に何の希望もない。こうして苦しみ続けて終わるのだ。
「今度こそ、確実な方法で死のう」
首吊りは、本によると確実らしいが、私は何度も失敗している。
飛び降りは、成功率85パーセントで死に損なったら大変だし、高所恐怖症なので勇気がない。
服毒自殺に決めた。
唯一外出できる通院日に、父に薬局にも連れて行ってもらった。
3軒の薬局をハシゴして、致死量の3倍の薬品を手に入れた。
それだけの量をのむと、吐いてしまうらしいので、吐き気止めと胃薬も買った。
のんで数時間で、耳が聞こえなくなるらしい。それから、呼吸困難に陥って窒息死に至るそうだ。
苦しいだろうが、これまで5年間苦しんだことを思えば・・・そして、これからもずっと苦しみ続けることを思えば・・・。やっと、楽になれる。
私が自殺したことで、娘が、修学旅行に行けなくなったらかわいそうなので、決行は娘が旅行から帰って、お土産話を聞いてから、と決めた。




一人の友人にだけ打ち明けた。
回りまわって、夫の耳に入ってしまった。
帰宅した夫に
「だれかれ構わず『死ぬ、死ぬ』って言ってまわるなよ!!」と怒鳴られた。
「娘の修学旅行が終わったからって、あの子の人生が終わるわけじゃない」と言われた。
次の日、起きたら、夫の両親が来ていた。
東京の大学病院に入院して、最新の治療を受けてくるようにと言われた。
まだ、臨床例の少ない磁気刺激療法。電磁石で脳に誘導電流を起こし、前頭葉を刺激するらしい。
医療保険が利かないので、どれほど費用がかかるかわからない。
夫の父から、札束の入った分厚い封筒を手渡された。
母に話したら、
「あの家は、お金はいくらでもあるからね。東京までは、お見舞い行けないわよ」と言われた。




皆が期待してるから、怖いけど、その治療受けてみよう。
自殺することの方が怖くないなんて、何でなんだろ?
買い込んだ、致死量3倍の薬品は、今も隠し持っている。
カウンセラーの先生に、
「私に預けてくれませんか?」と言われたが、お断りした。
いつでも死ねる・・・そう思えることが、今の私の支えになっているから。

役立たずの私

4月10日から幼稚園が始まっている。
でも、まだ1日も、送り迎えをしていない。
お姑さんと義妹が行ってくれている。



毎晩「明日こそは行くぞ!」と思って、着ていく洋服や幼稚園の用意はする。
でも、朝になると激しい頭痛とめまいがして、吐いてしまう。
夜中に目が覚めて、ずーっと吐いていることもある。
どうしても、ベッドから起き上がることができない。
夕方になると、ようやく起きられる。
登校拒否の子どもみたいだ。



今日、夕食時に、娘が
「ママは、何の役に立ってるの?」と聞いてきた。
何も答えられなかった。
夫が
「夜の食器洗いはしてるよ。時々、夕食も作ってる。着ていくものの用意もしてるな」と答えてくれた。
でも、こんなことは、夫にもできることだ。
それに、私は、たったのこれだけのことしかできない、役立たずだ。
「痩せるまで、学校に来ないでよね」娘が言った。
病気になってからは、学校行事は夫に行ってもらっている。
30キロも太って醜くなった私を、みんな知らない。
友達に見られるのが、恥ずかしいのだろう。
私が、ここにいる意味なんてあるんだろうか・・・。
とても惨めで悲しくなった。

反面教師

今年に入って、ずっと不調が続いているが、春休みになって、ますます落ちている。
幼稚園の送り迎えを、お姑さんにしてもらってた3学期は、夜までチビちゃんは家に帰ってこなかった。
一人で、一日中寝ていられた。
でも、春休みでチビちゃんがいると、そうはいかない。
3食きちんと食べさせないといけないし、一緒に遊びたがる。
夜は睡眠薬をのんでも、ぐっすり眠れないし、疲労は蓄積するばかりだ。
4月に入ったら、新学期のことを考えて、憂鬱度がさらに増した。
「新学期からは、頑張って送り迎えしますから」と、お姑さんにお礼の電話をした時に、自分で自分の首を絞めるようなことを言ってしまったのも、気持ちが重くなる原因の一つだ。
きっと、始業式に向けて、ますます体調が悪化していくだろう。
チビちゃんが、小学校に入学するまでの一年・・・辛くて長い日々が始まる。




カウンセリングで、先生から
「みほさんは、どんな子育てをしてますか?ご両親と同じように、娘さん達を育ててはいませんか?」
と聞かれた。
アダルトチルドレンは連鎖する。きっと、両親も、親から厳しく育てられて、窮屈な生き方をしてきたACなのだろう。
私は、上の娘を出産した時、どういうふうにこの子を育てようかと考えた。
そして、自分が両親から認めてもらえなくて辛かったことを思い出し、
「子どもも一人の人間として尊重しよう。私は親だからといって、いつも正しいとは限らない。ちゃんと、子どもと話し合って、私が間違っていたら謝ろう。こんなふうになってほしいという期待はせずに、あるがままのこの子を受け止めよう。それから、小さなことでも褒めよう。褒めて自信を持たせて自分を好きになれるようにしてあげよう。そして『勉強しなさい』は絶対言わない」と決めた。
実行してきたつもりだ。
娘は、私と違って、自分に自信を持っていて、意見をはっきり言える、積極的で活発な子に成長した。成績は常にトップクラスだ。男女関係なく友達が多い。先輩からは可愛がられ、後輩からは憧れられている。バレンタインデーには、いっぱいチョコレートをもらってくる。
3月の卒業式では、在校生代表で送辞を読んだ。
中学2年生では生徒会副会長を務め、新学期からは生徒会長だ。
人前で話すことが苦手な私の娘とは思えない。
「家族でいるより、友達と一緒の方が楽しい。友達の方が大事だし好き。ごめんね。でも、私のことを一番理解してくれるのは、ママだよ」
なんて、嬉しいことを言ってくれる。
カウンセラーの先生に
「皮肉だけど、ご両親が反面教師なのね」と言われた。




弟は両親にとって、愛しむ対象だった。私は両親にとって、自慢にする道具だった。
弟は自分の思うように生きられた。私は両親の思い通りに生きることを強いられた。
親戚が集まる機会が、度々あった。
両親は、私のことを自慢した。
3才の頃には、もう小学校高学年向けの小説を読んでいるだとか。
通知表が、オール5だとか。
中学受験のために受けた模擬テストの順位だとか。
進学校に、トップクラスの順位で合格しただとか。
私は、小さい頃から、絵を描くのが好きで、将来はそれを職業にしたいと思っていたので、美大に行きたいと言った。
それは、両親の望むところではなかった。
美大を卒業したからって、皆が絵を描く職業に就けるわけではないわよ!それは、ごく一握りの才能のある人よ!あなた、自分に才能があると思ってるの?そんなの無いわよ!」ものすごく怒っていた。
一週間、毎晩、両親の寝室で泣いて頼んだ。
それから、大学を卒業して、就職が決まるまで、親戚の集まりに行くことは許されなかった。
両親にとっては、とんでもない恥さらしだったんだろう。
老舗の有名な子供服メーカーにデザイナーとして就職が決まったら、また、自慢の道具として連れて行かれた。




私は、ACの連鎖は私でくい止めようと思っている。
娘達には、のびやかに自由に生きてほしい。
自分に自信を持ってほしい。
自分を好きでいてほしい。
自分の歩みたい道を、自分で見つけて歩んでほしい。
私が、できなかったことばかりだ。